昭和46年10月03日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 金光大神助けてくれといえば、おかげを授けてやる。ここのところは、皆さんが良く守っておるようですけれども、金光大神の言う事に背かぬよう、よく守って信心せよというところが、疎かになっとるようですね。金光大神のいわれることには、背いておる守ってはいない。お話を頂くから、知ってはおるけれども、それを守らない。色んな問題、色んな場合です、やはり難儀を感じるとです、又はまさかの時と言った様な時に、やはり金光様を唱える、金光様が自然とくちをついて出て来る様になる。
 これだけでも実は有り難いですね、金光様と言えれる、そこに心の支えというか、支柱を持っておると言う事はね、それでもやはり、おかげを受けておりますけれども、いよいよそれが、本当のおかげになるためには、金光大神の言う事に背かぬように、よく守って信心せよというところが、段々身に付いていかなければならん。どれほど金光大神のいわれることを、守って信心しておるだろうか。
 中々日常生活の上に、御教えを行ずるということは、なるほど私自身難しいものであったし、難しいものであったというよりも、それに本当に取り組もうとしなかったです。これはもう何十年間、私の場合でもそういう信心が続いた。金光様と唱えること、毎日拝むこと、困った時には「金光様」と、それこそ一心にすがると言う事は、何十年間してまいりましたけれども、金光大神がいわれることに背かぬようにと言う様な所には、本当にうかつであった。
 私金光様の御信心はですね、本当に教祖様の教えて下さることを、本気で守ろうと、例えば一言でも、思い続けたら、おかげが受けられるだけで、徳が受けられるです。そのように金光大神の云われることは素晴らしいことなんです。日々頂く御理解をですね、その御理解の中から、今日は一つ、ここんところを頂かせてもらおうと、焦点をおいて、お互い本気でそれに取り組ませて頂いたら、確かに素晴らしい、おかげが受けられるということは、素晴らしい心の状態が頂かれるのです。
 この心の状態にです、即おかげが頂かれると言う事でない場合もある。けれどもそういう心がです、積り積り溜まり溜まって、信心の力ともなりゃ、いわゆる、信心者としての人柄というものが自ずと生まれてくるのです。いわゆる私共の人情柄が変わってくるのです。いうなら成程信心しなさるから、何処とものう違うと言う事になってくるんです。ところがその、何十年信心しておってもです、これは私のんなら過去の、まぁそれを終戦までと言う事になるでしょうかね。
 その何十年間という間です、信心によって人柄が変わるというほどしのところ全然頂いていない。ただ毎朝、いや毎朝、朝晩拝むことだけは拝む、お願いをすることだけはお願いをする、まさかの時には、それこそ「金光さま」と唱える。成程それで、おかげは確かに受けてまいりました。ですからそういう程度の人が多いのじゃないかとこう思います。それで例えば、私共の信心が一生終わりでもしたら、もうそれこそ取り返しのつかないこと。それではね。
 何十年間信心をしたからというて、ならあの世に持っていけると言った様なものは、身に付くはずもなからなければ、また子孫に残すということもでけません。一つ本気でですね、教祖様のその御教えというか、教祖様のいわゆる御信心振りというものが、身に付くところまで、おかげを頂くために、やはり一心発起しなければいけない。私自身何十年間という間金光様、金光様をいうてきたばかり、それは終戦そして、まぁいよいよ大転機間、私の信心の大転機になったわけでありましてね。
 本当に教祖金光大神の、いわゆる生きられ方というものを、本気で身につけようという事に、段々なってまいりました。そこから私が助かり一家が助かり、沢山な人が助かるような事になってきた。これを私が一生頂き続けていくならば、必ずやあの世にも持っていけるだろう、この世にも残しておけるだろうというものを感じます。それとてもです、私が一生頂き続けられなかったらダメだ。
 金光大神の云うことに背かぬよう、よく守って信心せよ。よく守って信心さして頂いたら、心の状態が変わってくる、人情柄が変わってくる。そこのところの、いわゆるおかげを受けなければです、金光さまの信心の、さして頂く値打ちがありません。昨日一昨日でしたか、日田の綾部さん達が、親子でお参りしてみえた。ご長男と一緒に。もう久しゅうお参りがなかった、あのご長男の和義さんという方とね。
 いろんな問題が次々と起きて来る、これはやはり本気で信心せにゃと言った様な気持ちが出来られたのでしょうか、それでここで私が色々と、頂いたことをお伝えさせて頂いた。まぁ肝に銘じたというような表情で帰られました。昨日、綾部さんがお参りしてみえてからですね、先生もう本当こげな有り難いことはありませんと、今日こちらにお参りさせて頂こうと思いましたら、嫁がこういうことを申します。
 昨日合楽から帰られてから、和義さんね、ご主人、主人がこんなに言います。今晩から、お酒屋さんですから、ずいぶんお酒も強い、ずいぶん頂きよんなさったらしいですね、今晩から、もうビールは一本づつ、俺がいくら言うても決して出してくれるなと言われましたちゆう。もう今までかってそう言う事を、まぁお酒屋さん、手元にあるもんですから、頂きたいだけは頂く、というまぁ生き方だったんでしょうね、
 私がいわゆる、体質改善ということについてお話さして頂いたんです。それであぁたん所のお母さんが、いわゆる本気で、例えば色んな問題がおきて参ります。あちらの一年祭の謝恩祭をさして頂きます時に、頂いたそのことがです、今にやっぱり行じ抜かれておられる、お母さんが。大きなこのお相撲さんのお姿を頂いた、そしてこう回しをはめておられる、それがお腹が小さいもんですから、その回しが下へ、ストンと落ちたところを、その時頂いたから、これは綾部さんに言うておくことであろうと思うて。
 綾部さんにそのことを伝えておきました。いかに成る程、あれだけのこと女で一つで支えてみえて、やってみられた。本当にまぁ日田の傑物と女ながらも言われる程しの、まぁ商売を、いわゆる男商売ですね、酒屋というのは、それをまぁやってみえられた。沢山の人を使うて。ですからずい分、やはり太っ腹な方だと、皆も言い、自分もやっぱりそう思うておられたのではなかろうか。
 ところが神様の目からご覧になると、太いようだけであって、実際が締め縄、まわしてみると、その締めがすとっと下に落ちるような状態、これではならんいよいよ本気で太っ腹に、大きな腹にならなきゃいけない。そういうお祭りを仕えさせて頂いて以来、それから起きてくることは、もう本当に、これだけは一ついうとかにゃなるまいと言った様な事が、次々起きてくる。もうそれは不思議と思うくらいです。
 それをまぁ綾部さんが言われるのは、もし合楽に御神縁を頂いていなかったら、日田の綾部商店はどうなっとったか分からんと思う様な事が、次々起きて来る。しかも矢次早やに起きて来る。これは昨日一昨日、その前の日でした。一緒に高芝さんがお参りしようと思いよったら用があった。いわゆるまた問題が起きておった。だからお参りが出来なかったから、迎えに行ったけれども、高芝さんが一人で帰って参って見えた。
 でそん時にも、やはりあちらの嫁さんが、高芝さんに「おっちゃま、ちょっともう、家のお母さんに私は驚いた」ち、「夕べから今日にかけてから、こういう問題が起きておる、もう今日はいよいよ爆発するばいなぁ、今夜はいよいよ爆発するばいなぁと思うような事が起きてきておるのにですね、もう一言も云わんじゃったのに、私はもう関心した」ちゆうて、その嫁子さんが綾部さんに話さしちゃった。
 今いう締め縄がもう張られたわけですよね、締め縄というのはそれこそ一心発起すると言うか、命がけというか一生懸命のものと言う様な意味だそうですよね、例えば投げ殺されても文句は言わんというのが、あの締め縄だそうです。それこそ投げ殺されるような事が起きておる、しかも十何年信用しておった番頭達の上にそれが次々と現れてきた。これは亭主の自分の不行き届きであった、自分があまりにも迂闊であったというところだけに絞られて、ただ神様に御詫びするより他にはないという頂き方なんだ。
 それで相手を責めないそれをようもようも、今まで気がつかなかったことだと言う様なことが起きておるわけです。もう私は本当に畏れ入りますね、私共が本当に体質改善のおかげを、いうならば、金光大神の教えられたことを、本気で守ろうとし出したらですね、それは自分でも言われますが、本当に合楽に御神縁を頂かなかったら、もう綾部商店は潰れると言う様な事が次々起きておるわけですよ、それこそ寝耳に水と言った様な事が起きてきておる。
 しかも今まで10何年間、家の番頭達はよう働いてくれて、もうよう勤めなんかでも、まぁ他所辺りは、そのさあちょっと勤めたら、すぐ出ると言った様な事聞くけども、私の方では、もう10年、15年皆勤めておる、しかも一人ひとりが自家用車で通うてくるというのが、まぁある意味でのご自慢じゃったですね、あちらは。ところがそれが間違いじゃったんです。
 はぁ酒屋の番頭さん辺りで自家用車で、番頭さんどんが通うてくる、しかも10年も15年も勤められよるから、よっぽどやはり給料が良いじゃろうかと、私は思いよった話を聞きながら。ところが成程相する筈だと言った様な事が、もう一つひとつ出てきた訳なんです。そこでいわば、現在のいわゆる亭主であるところの、もう自分は隠居のような立場におられますから、息子さんが考えざるをえない、これは金光様にお縋りしなきゃいかんというので、昨日一昨日参って見えた。
 そしてここで御理解を頂いてです、いわゆるお母さんの生き方が素晴らしいだけではない、亭主であるところの、あぁたの生き方も、また素晴らしゅうならなければ、とてもダメだと。そん為にあなたの嫁さんも、兄弟達も、打って一丸になって、ここはおかげを頂いていかなければ、例えば朝鮮人参のお知らせを頂いて、朝鮮人参の下にあの大きな根の脇に沢山なひげ根がある、そこからその養分を吸い上げるように。
 一本二本の根ができる、みんなの根から吸い上げなければ、もうこの土台が持てないと言う様な状態の時だから、それで本気でただ、縋るとか頼むとか願うだけではなくてです。いわゆる体質改善を頂かにゃいけんと言うて帰られた。帰られてなら早速奥さんに話された事がです、俺が例えば「おいもう一本ビール持って来い」というても、決して一本以上は出してくれるなと、こう頼まれたと言う事をね、息子さんの奥さんが綾部さんに昨日、お参りをして来る時に、今日夕べは合楽から帰ってこう言う事。
 もうそれこそ涙を流してから、そのことを喜んでおられました。そんな人間じゃなかった、そんなことじゃなかったのがです、御理解を頂いてです、もう一心発起したのでしょう、そういうふうに改まっていきよるという話を、お届けを昨日なさっておられます。ね、私共がですよ思うですよ、一心発起しなければです、金光大神の言われることに背いてしまうのです。金光大神の言う事に背かぬようにというんです。
 皆さんは、何をこれだけはと言う様にして、行じ抜いておられることがあるだろうか。毎日お参りはさしてもらいよる、お取次ぎは頂きよる、お願いはしよるけれども、ならこちらで頂くとこの、金光大神の言う事に背かぬようにと言う様な生き方が、果たしてどのくらい生活に現されておるだろうか。昨日善導寺の久保山さん、経理をしております久保山茂さんです。毎日今朝参りがあっとります。で2度目のお参り、何か御用のためにこっちへ来とりました。
 ちょうど夕方まで掛っておりましたから、一緒にまぁお食事させて頂いたわけですけれども、そん時に茂さんがこう言う事を言うておられますね、「もう最近、毎朝朝参りをさしてもろうて、もう親先生に顔が合わせられんくらいに、私一人の為のご理解のように感じます」とこう言う。私一人の為の御理解。決して私がんなら、茂さんに当てつけて言いよるわけでも何でもない。
 本気で頂く姿勢を作ったら、そうあるのが本当じゃないでしょうかね、そしてです有り難い事はね、そうした教えを本気で頂いて、そこにささやかながらも教えに取り組ませて頂いておると、必ず心から喜びが湧いてくる。「親先生その喜びが湧いてくる時には、何にも問題じゃありませんね」と「そうじゃろうが茂さん。そうばい」ていうて話したことでした。「問題がある時にはもう絶対、今私は信心の喜びから欠けておると悟らせてもらうべきだもんね」て言うて茂さんと2人でその事を話し合った事でした。
 教えを本気で、金光大神の言われることを行じておる、それに引き換えに与えられるのが信心の喜びである。それは中々あかぬけしないものではある、けれどもそこんところに、一つ楽しみを持つような信心を段々させて頂いておるとです、問題がなくなるという、喜びの前には。だからそこに、そりゃどうした事か、困ったことである、あぁだこうだと人の足元が見えたりする時には、もう今私は信心の喜びがかけておる時だから、もうその方を見らずに、神様の方へ向きを向き直して、そして神様へ向かう。
 いわゆる金光大神の言われることを思い出して、金光大神の言われたことに背かぬような行き方にならせて頂こうという姿勢を整える以外にはない。これはですね、いうなら茂さんの尊い信心体験だと思います。そのことは、ところが実は私共の前には、問題が多いすぎるくらいに問題があるということ。そこでその問題に匹敵するだけの、いや、その問題を消してしまうほどしのです、信心の喜びを頂くためには、いくら参ったからというて、拝んだから頂けるのじゃない。
 金光大神の言われることを、よく守って頂いていくというところからしか、生まれてこないということね、皆さん本当に金光大神の言う事に背かぬようにという信心にね、焦点をおかして頂かなければそりゃ信心さして頂いとりますと、一番最後のね、“金光大神助けてくれ”と、これはまさかの時(?)まさかではなく時でも、やはり金光さまを唱えておる、拝んではおる、参ってはおる、ね。もう何年も前だったでしょうか、若先生が神様にお知らせを頂いておる。
 それにこう言う事を、親先生はアルカリ性だ、お前は酸性だと言う事を頂いたと言うて、紙に書いてからお届けに来ました。もう何年も前でした。私はアルカリ性、若先生は酸性だと。私はどういう意味か、何年間経ったけれども分からなかった。したら昨日ちょっとした読み物をさしてもらいよったら、その中にそれが出てきておった。やっぱ信心のことに関してのことである。
 アルカリ性というのはね、人間がね、不平不足を言わず喜びいっぱいと言った様な時にはね、人間の体全体がアルカリ性になるそうですね、そういう時には、どういう例えばその病人があってもね、例えばそれが移るような病気であっても、絶対移ることがないちゆう、それを向こうの方へ、悪いものは向こうの方へ押しやってしまうと言う様な働きがあるそうです。
 不平を言う不足をいう、イライラ、ジガジガ、モヤモヤしておる時にはです、それが反対に酸性に変わってしまうそうです。ですから病人見舞いに行っただけで移って帰ってくるというようなのは、酸性が強い人だと言う様な事が。はぁ成程これはまぁだ、なら若先生が今、いわゆる有り難い、勿体無いの権化ようであるはずがないです、そりゃどちらかって言うなら酸性の方が強いだろう、神様がそれを指摘しなさった。
 だから、その酸性からアルカリ性に変わっていくためにはという、これもしかも何年も前に、そういうお知らせを頂いておる。それには例えば、んならね、親先生の方はアルカリ性が強いと、アルカリ性だとするならです、そのアルカリ性になることのために、一つその真似なりとせなできん、その精進がなされなければならない。と言う事はどう言う事かというと、これは病気だけじゃありません。
 お互いが酸性になりますとですね、おかげは全部向こうの方へ押しやってしまうことになるです、今度はんたいに此の方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るようなです、これは病気だけではない、ばい菌のようなものが寄り付かれんように、いうなら、いうなら貧乏神が寄り付かれない、状態になってくるわけです、そして福の神だけが、どんどん寄り付くような、状態になるのが、人間がアルカリ性の状態になった時である。
 それに貧乏神は嫌というて、自分で押しやろうとしてもです、心の状態が酸性であるならば、どこの隙からか、入ってくるわけです。そのいうなら、アルカリ性の状態になることのために、金光大神の言う事に背かぬようにというのであります。それが本当に行じられて行く時にです、必ずこれは、計算づくのものではない、どこから頂けるか分からない、信心の喜びというものが頂けて来る。その喜びの前には、それこそ問題が消えてしまっておる、問題ではないということになってくる。
 所がそれと反対の時には、もう問題が多いすぎていわゆる自分のね、いうなら我情だけが強くなり、又は我欲が強うなって、福の神が寄り付かれんようになり、貧乏神が寄り付かれる様な状態になる。悪い病気の元が寄り付く様になる。そこん所からです、考え合わせて頂きましても、ただ願って縋って、まさかの時には金光大神、成程それでもんなら私の過去からいうて何十年間おかげは頂いてきたけれども、それではあの世に持っていけれる物にもならなければ、この世に残しておける物にもならないと。
 折角御信心を頂くのであるから、本気で金光大神の言われる事に背かぬような生き方をです、例えば些細な、一言でもいいから頂きぬこう、行じぬこうという姿勢がいるんだと。それを新鮮な例えば朝のご理解を、新鮮な心で新鮮なご理解を頂いて、それを今日一日の指針、自分の心を支えるものとして、頂きぬくならばです、それが溜まり溜まって、喜びにならないはずがない。
 それが福の神を呼ぶのであり、健康を呼ぶのであり、しかもそれが徳にまでもなっていくというのである。しかもそれが一生頂き続けられる時にです、始めてあの世にも持っていけ、この世にも残しておけれると言う事になる。今日私が喜びの権化のように言うておっても、あっておっても、明日の事は分からない。
 私が自分のその信心を、もし取り落としたならばです、ですからこれを一つ、私共が一生頂き続けようという意欲、一生頂き続けようという一心発起をです、一つまずなされなければいけません。そこからです、例えば言いなりなおかげというよりも、いわば言いなりどころではない、思いもかけないというかね、いわゆる金光大神助けてくれと、例えばここで言わんでもです、おかげが頂けれる世界が開けてくる。
 今日は御理解4節の前半でなくて後半のところね、金光大神の言う事に背かぬようというところに、いわば焦点を置いてお話を聞いて頂きました。皆さん何十年お参りさして頂いてです、おかげだけは、お取次ぎを頂いて頂いていきましても、それはね、いうならば何にもならん。金光大神の言う事に背かぬように、それを守らせて頂くことに喜びを感じる、いうならまぁ生甲斐を感じる、金光大神の。
 そこに私共の人柄、人情柄というものが変わってくる、いわゆる人情柄が変わるということが、そのままが体質改善である、家のうちに体質改善がだから起こってくる、そこからまた家柄までも変わってくる、まず人情柄が変わるために、お繰り合わせを頂かなければならん。毎日お参りをしとおりますというだけに止まらず、毎日教祖様の御教えに背かぬよう生活を致しておりますと言う事に、ならなければならんと言う事でありますね。
   どうぞ。